小野光太郎とは

「県立音楽堂」最大の危機を救う

「地域貢献の申し子」として名を馳せた小野光太郎氏だが、その功績を今回の件で帳消しにすべきではない。
まずはその文化的な貢献。
京都と金沢と言う文化先進地域の狭間にあって、福井県の実態は全国的に見てもまさに文化後進県であった。
福井県が世界に誇る県立音楽堂「ハーモニーホール」(ウイキベディアは世界11の音楽堂の一つにハーモニーホール福井を採りあげている、日本では他にない)の生みの親が小野光太郎氏であることは周知の事実であるが、これを実現した過程で管理、運営母体である県文化振興事業団がアルゼンチン国債の不払いで基金の大半の6億円の損失を出し存続不能となったことがあった。
しかし、その危急時にただちに私財より全額を補填し埋め合わせたのが小野理事長であった。
そもそも、この理事長職なるものは自治体の名誉職であって、経営責任を伴うものではない。
県の有力OBが専務と事務局長を務める事務方があらかじめ県の関係部門と相談して起案稟議し、理事会が正式承認して基金運用のため購入したアルゼンチン国債が不払いになったからといって、法的にも常識的にも理事長がその損失に責任を負うべきものではない。  
しかし、それに対し即座に6億円もの超多額な私財を提供するというのが、小野光太郎氏の福井県の文化振興を一刻なりとも停滞させてはならぬと言う強い情熱の賜物であった。
今日「県立音楽堂」が県民に親しまれ、本県の音楽文化発信の基点になり得ているのも、すべて小野光太郎氏の功績なのである。

広大な土地を福井工大に寄贈

「日本マイヤー」が金井学園福井工業大学に対し福井市東山と永平寺町に跨る3万5千坪に及ぶ広大な土地を寄贈した事実はまだ耳に新しいが、これもまさに小野光太郎氏の功績。
後述するように小野光太郎氏は34歳の若き日にドイツのカールマイヤー氏にスカウトされ、福井に定住し日本マイヤーを創業した。
小野光太郎氏の必死の努力と社員の高い勤労モラルで優良会社の手本と評されるまでの会社に成長するが、小野光太郎氏は将来のために購入した前記土地に工場を建築すべきか、折から台頭してきた中国に工場を建築すべきかの難しい判断に迫られていた。
当時は近年と異なり中国投資には多大のリスクがあった。
独マイヤー社との合弁であったが、小野光太郎氏は中国投資を決断し日本マイヤー主導で人材を投入して生産を軌道に乗せ、短期間に全投資資金を回収した。
生産拠点の海外シフトにより、日本マイヤーも土地代、造成費に12億円強を注ぎ込んだ前記の福井市、永平寺町の広大な土地は不要となり、福井駅から車で15〜20分と言う利便性から株主側と役員間で住宅団地等への転用等が討議された。
しかし、よそ者の典型である外資の日本マイヤーを地元が暖かく迎え入れ育ててくれたこと、福井工大出身者が多く同社に入社し優れた実績を示していること、20年前に故カールマイヤー氏に対し福井工業大学より名誉教授称号を送られていることへの恩義を考慮し、小野光太郎氏は渡独してマイヤー家一族を説得し同大学に寄贈したという経緯である。
小野光太郎氏に受けた恩に報いるべく、同大学の金井兼総長はそのグラウンドに「カールマイヤーグラウンド」と命名したのである。

銀行に対する恩義は決して忘れない

小野光太郎氏は34歳の時に商社のトーメンを退職し、故カールマイヤー氏にスカウトされて株を持たぬいわば番頭として福井の地で武田マイヤー(現在の日本マイヤー)を設立。
当時の自己資金4千万円を社長在任中に118億円にまで積み上げ、日本海側外資初の企業として、また外資が日本人に100%経営を任せた成功企業の有名な例としてシェル石油に並び、内外にその名を知られた。
しかし、その経営は決して順風満帆ではなかった。前出の小野光太郎氏の元番頭格に当たる友人が当時を振り返る。
「日本マイヤーがオイルショックでたった数百万円の手形決済が出来ず小野光太郎氏も1株も持たぬ立場でありながら個人保証をしているという倒産寸前の状況で取引銀行「北陸銀行」の当時の馬瀬頭取に直訴して生き永らえた恩義を忘れず、小野代表は後年同行がバブル崩壊で苦境に陥った時、取引先会長として懸命に協力していました。
苦しかった当時、自分も小野光太郎氏の要請で大蔵省と通産省に毎週の様に通い、日銀の窓口規制中であっても日本の繊維産業のために日本マイヤーに対しカールマイヤー氏からのローンを許可してくれるよう懇請したが、外資に対する態度は厳しく時間ばかり掛かり、遂には小野光太郎氏の決断で日本マイヤーを債務者として高岡のワシ興産の土地、建物を担保提供し、自宅も保証債務の対象とし、 夫人に一生日本マイヤーの借金返済の人生を覚悟するよう申し渡し、 なかば覚悟を決めていたようです。自分も失業を覚悟し子供もまだ小さく焦りも有り必死でした。あの時、北陸銀行の融資が無ければ今日の日本マイヤーは絶対に存在していません」
こう語るが、小野光太郎氏と役社員の必死の努力で業績は急回復し、その後今日まで無借金経営となっている。